Saint Bleu

Don't you ask yourself, ”Can this be?”

インターネットと記録

三行de概要
Twilogが終わってめっちゃショックうけた
・己の発信する意味を考え直した
・とりあえずインターネットのいろんなとこにいる予定

Twilogショックの話

約13年間お世話になったTwilogが新規ツイートの記録を終了した。
長年TL閲覧や検索でお世話になったfeatherも完全に終了した。
Twilogに日々のどうでもいいことや好きなものを記録して、featherでなんとなくTLを見るという日常が、不意に終わってしまった。

TwilogAPIの仕様変更により4月末には終了予定というお知らせを見たのは一週間前くらいのことで、ああついに来たかと思った。いよいよ他の記録手段を探さなければと思った。Twitterを使ってきたいろいろな目的はあれど、私の一番大事だった目的は「記録する」だったんだなとこのとき思い知った。
これからの記録のしかたを模索したり、いろんな手段を試してみたり、代替手段の模索と、心の準備をしてたところだった。なのに、お別れの時間も突然奪われてしまったみたいで、すごいショックを受けてしまった。卒業式の準備しながら思い出を振り返ってたら、長年過ごした母校が突然消し飛んだみたいな気持ちだった。
作品語りも日常の気づきもいろんな思い出も、あのときそういうことがあったな、って振り返って思い出すのにずっと使ってた。13年ずっと一緒に生きてきた、人生のパートナーみたいな存在だった。その別れの時間さえも唐突に失ってしまった。

ここ最近特に、世の中ではひとときの流れを楽しむ刹那のインターネットに親しんでる人のほうが多くて、インターネットに記録を残すことにこだわりを持ってる自分みたいな人間は少数派なんだろうなって感じる。
インターネットを記録の場に使うよりは手帳とかに日記書いたほうがいいのかもしれないが、他人に見られてると思うとちゃんと文を書くきっかけになってる気がする。今も手帳にやったことリストやひとこと日記みたいなのは書いてるけど、誰にも見られてないと思うとめちゃくちゃ適当になりがち。なので、インターネットに適当に何かを放流するスタイルは続けたい。特に、この13年で短文で散逸的になんとなく思いつきでテーマを決めずに語ることに慣れてしまって、結局それが一番自分の心が落ち着く手段になってる気がする。

 

○発信する意味

発信場所について考えてると、いや別に何も発信しなくてもいいのでは?みたいな気持ちになりがち。というか本当にそうだと思う。必要のないことをやってる。でも必要ないことが必要なときがあるからずっと何かしら発信してるんだと思う。
そんなこと考えるなかで、自分が発信するときに何を大事に思ってるのかが普段よりはっきりしてきたのは面白かった。

いろんな場所で適当に発信してみて、私はよく知ってる人に見てもらいたいというより、誰も見てないかもしれないけど、たまたま通りすがりに見てくれる人がいる、くらいのほうが心地いいのかもしれないと思った。どちらも見てくれるだけでとてもありがたいことなんだけど。

自分の発したものがなるべく自分と紐づいたものであってほしくない、もしくはなるべくそのように見られないようにしたい、みたいなところがあるので、そこが分離できないような感覚を長時間味わうとちょっと溺れてしまうような気持ちになるのかもしれない。
流したものだけ好きに見てほしいし、かと言ってその延長線上で好きなことをぶつぶつと喋りたいし、誰かがふと聞いてくれたら嬉しいと思うし、でもいつでも誰かに聞いてほしいわけでもなく、自分の内の感情を大事にしたいし、誰かの雑音にもなりたくない。私は私の場所で何かをしていて、ほかの人はそれぞれの自分の場所で何かをしている。そういう原っぱをぼんやりと眺めながら笹舟をつくっていたい。
全部成り立たせるのは無理な話で、でもそういうことを考えずに全部気に留めないのも無理な話なので、いかにそれらの欲求たちに折り合いをつけてもらうかという話になる。
私は私という存在としてものを言いたくなくて、そのときどきの言ったものでいたいみたいなところがあるのかもしれない。

でもアカウント分けという行いは、人格が分裂するような感覚がちょっとざわざわするからあまり積極的にやりにくい。そう思ってずっとやってこなかった。しかしそうするとアカウントにひとつづきの人格が生まれるのは必然のことで……作品だけ置いてる場所と生活の一部として作品も置いてる場所と両方作ってきたけど、やっぱりこれまで通りそういうのをテキトーにやっていくのが一番向いてるのかもしれない。作るために生きてるとか生きるために作ってるとかそういう大仰な話でもなく、生きてたら作らずにいられないこともたまーにあるよねみたいな生活がしたい。

 

○記録方法模索中

半年前くらいから、ひとところに頼りきるっていうのをいろんなところでやめていこうとは思ってたけど、こんなに目まぐるしく転換を迫られるのは予想外だった。万物は流転する。形あるものはいつか終わる。儚くて辛い。
まだまだ模索中で、続けたりやめたりまた始めたりするかもしれないけど、当面は「いろんなところにいる」ってスタンスで生きていこうと考え中。あとできる限りデータを手元に残す。自作品とかブログに書いたものとかはだいたいデータ残してるけど、データも儚いので積極的に保存していきたい。

 

模索中方法の感想。

Mastodon

短文書き散らし媒体としてはとても良い。最大500文字書けるのでまあまあしっかりしたこと書ける。サーバーによっては検索機能もわりと使えるし、サーバー内の投稿が流れるタイムラインがないところだと、誰にも見られてないかもしれないけど見えてるかもしれないっていうちょうどいい加減で書ける気がする。人がいるのが見えにくいので、見つけられることもなかなかなさそうなのが良い点でもあり、難点でもある。
サーバー内タイムラインがあって流れが遅めのとこに最近登録してみたけど、好きな作品の話をだらっとしてみたり好きにつぶやいてる人を適当に観測するのはいいなあと思っている。

◇Misskey

軽い気持ちで軽いことを流せる。サーバー内TLが早いと目がやられ、UIと絵文字がかわいいけど目がやられるのが難点。いろんなとこにアカウント作ってみてる。
ヘビーなCP語りとかより脳直テンションよくわからん発言のほうが流しやすそうなところはある。絵文字で和むこともあればちょっと疲れるところもある。
かなり長文投稿もできるし、記事みたいなのも作れるし、診断メーカーみたいなのも作れるらしい。あまりにも多機能。あとチャンネルっていう特定の話題に特化したサークル機能みたいなのがある。ただ現時点でチャンネルに投稿するとサーバー外に記録されないのが難点。サーバーの中のチャンネルで話題が細分化されるとあとでまとめて見返すのは便利だけど、自分が投稿するときに脳が疲れそうだなという現時点の感想。

 

MastodonとMisskeyはどこのサーバーにいてもアカウントがフォローできるので、アカウント分けっていうより手足が分かれてるくらいの感じで当面はやってみようと思ってる。同じところにいつづけるアンバランスさから脱却するためにフラッと違う場所に行ってみる自由を体験してみるのもいいかなと思った。気分で反復横飛びする感じで。どのアカウントもnotestockってサービスで記録を残している。どれもいつかは終わるのかもしれないけど、とりあえずしばらくはそんな感じでやっていきたい。

Twitterはツールから直接記録を残す方法が当面ちょっとなさそうなのと、諸々の変化に気持ちの面で疲れてしまったので、フォロワーさんの投稿を見るのと、定期的にふらっと立ち寄ったり、何か作ったときは知らせたりするのに使うと思う。
ブログのほうは作品長文感想で、サイトは最終的な格納庫で、そんな感じでなんとなくの用途を決めつつ、決めないところもあるフワッとした感じで。とりあえずインターネットのどこかにいるような感じで生きていこうとしている。